067246 ランダム
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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

ルームメイト 6

 安っぽいラブホテルで済ませてしまうと、北嶋はさっさと服を着て帰り支度を始めた。
「奥さん、留守なんでしょ?」
「……娘が、晩飯待ってるんだ」
 私と目を合わさずに言うと、北嶋はテーブルの上にお札を置いた。
「ホテル代、ここに置いておくから。悪いけど、先に帰るわ」
 特大ベッドに裸のまま横たわりながら、私は無言で彼を見送った。北嶋が部屋を出ていってから、起きあがり、ゆっくりと服を着た。テーブルの上のお金を見ると、ここのホテル代よりもかなり多めの金額を北嶋は残していた。
 つきあっていた頃の北嶋は、「金がない」が口癖だった。住宅ローンに子供の教育費。それなのに、不景気のせいで残業代はカット。仕方のないことだから、私はそれほど気にしていなかった。食事代、ホテル代は割り勘で当然、私が出すこともたびたびあった。私がマンションを買ってからは、いつも私の部屋で手料理を食べ、抱きあった。
 それでよかった。金はなくても愛はあるなんて、能天気にも思っていられたのだから。
 私は、そのお金をわしづかみにすると、ホテルを出た。そして、なじみの飲み屋のある方角へ歩き出した。こんなお金は、さっさと飲み干してしまうに限る。

 深夜、家に着くとナナコはもう帰ってきていた。
 私はトイレに行くと、便器に顔を突っこむようにして、げえげえ吐いた。北嶋のくれたお金は、全部トイレの中に流されていった。いつの間にか横にきていたナナコが、背中をさすってくれている。吐くものがなくなると、私はナナコに支えられながらトイレを出た。
 寝室につくと、ナナコの手をふりほどくようにベッドに倒れ込んだ。天井がぐるぐると回っているような気がする。また気持ちが悪くなって、空吐きした。苦い胃液が口の中で粘りついて、ますます吐き気を募らせた。
 ナナコは、洗面器とコップを持ってきた。私は洗面器の中に胃液を吐き出すと、水で口の中をゆすいだ。それを繰り返すうちに、ようやく吐き気はおさまった。吐く苦しさで、私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。ナナコがタオルを持ってきて、拭いてくれた。
「……私って、馬鹿」
 タオルを顔に押し当てたまま、ようやく、それだけ言えた。
 ナナコはおだやかな表情で、私の髪を撫でてくれていた。その仕草が母親のようだと思ったが、考えてみれば、私は母からそのように慰められたことなど今までないのだった。
「果南ちゃんは、ちっとも馬鹿じゃないよ」
「ホントに?」
「うん、本当」
 まったく馬鹿な酔っぱらいだと思うけれど、ナナコのその一言で、鼻の奥がツンと痛くなった。つらいときや悲しいとき、優しく慰めてもらうということを、しばらく忘れていたようだ。だからナナコの一言で、こんなに泣きたい気持ちになるのだ。
 その夜はナナコの温もりを感じながら、夢も見ずにぐっすり眠った。

 目が覚めたのは、もう十時過ぎ。ナナコはいなかった。
 昨日と同じように、シャワーを浴びた。無性におなかが空いていた。炊飯器にそのままになっていた昨夜のご飯で、お茶漬けを二杯食べた。
 おなかが落ち着くと、部屋の中の臭いが気になって、窓を全部開けた。昨日と違って、どんよりとした雲が空を覆っていた。湿った風が、雨の匂いを運んでくる。
 午後からは、貴史が愛人とやってくる。お茶菓子でも用意しておくべきなのだろうか。

 チャイムが鳴ったのは、お昼ごはんのカップうどんを食べ終わった直後だった。あわててカップをシンクに放り込むと、ドアを開けた。相変わらず飄々とした貴史と、こわばった表情の愛人、由佳さんがいた。由佳さんは、たぶん二十代後半で小柄な人だった。少し、私に似ているかもしれない。
 とりあえず二人を居間に通し、私はティーパックの紅茶をいれた。さっき買ってきたクッキーと一緒に出して、由佳さんに砂糖を勧めると、小さな声で「いいです」という返事がかえってきた。
「今日の用件は、だいたいわかっていると思うけれど……」
 落ち着いた口調で、貴史が話を切りだした。由佳さんは、じっとうつむいている。
 約束した手前仕方なく同席しているが、何とも居心地が悪い。ほんの何週間か前、私自身が体験したことをリプレイしているみたいだ。男は、淡々と別れを切り出す。女は、うつむいてじっと話を聞いている。そして…… 。
 私の場合は、娘の自殺未遂のことで北嶋の妻から責められたことで面倒くさくなっていたのと、プライドが手伝って、あっさりと別れることに同意したのだった。他の女はどうやって別れるのだろうという興味はないでもなかったが、純粋に他人事として面白がるには、自分の最近の経験が生々しすぎた。
 風が強くなってきていた。がたがたと音がする窓を見てみると、雨粒がガラスを濡らし始めたところだった。どうりで、部屋の中が暗いはずだ。
「……由佳には、本当に済まないことをしたと思っているんだ」
 由佳さんが一言も口をきかないまま、貴史の話は続いている。
 それにしても、男の別れ話というのはオリジナリティがない。北嶋と、かなりセリフがだぶっている。マニュアルでもあるのだろうか。
「……わかったわ」
 小さな声で、由佳さんが言った。貴史はほっとしたように、ぬるくなった紅茶を一口飲んで唇を湿した。由佳さんは無表情のまま下を向き、ハンドバッグからハンカチでも取り出すように、華奢なナイフを取りだした。そして、そのナイフを両手で握り、凄みのある笑顔で貴史を見つめていた。
 貴史のほうは、呆然とした顔で由佳さんを見ていた。由佳さんをそこまで追いつめていたなんて、まるで考えもしていなかったのだろう。貴史にとって、これは父もやっていた軽い遊びにすぎないのだから。
(貴史が殺される?)
 胸の奥が、スーッと冷たくなった。
(死ぬ……貴史がいなくなる。そんなことは許さない!)
 昔、母に無理やり部屋を分けられたときのような、いや、それよりもはるかに強い怒りが私をとらえた。ひどいことを先にしたのは、貴史のほうだ。頭では、それはわかっている。だけど心は、私から貴史を奪い取ろうとする者への怒りで荒れ狂っていた。
(貴史は絶対に死なせない!)
 怒りのせいか、頭の芯が痺れるように痛かった。突然、どこからか現れたナナコが貴史の前に飛び出してきたのが見えた。それは、由佳さんがナイフごと貴史にぶつかっていったのと同時だった。
 一瞬、頭の中が真っ白になった。脇腹に、鋭い痛みが走った。我に返ると、刺されていたのは、私だった。
「果南子! 果南子!」
 貴史が、私を抱きかかえて叫んでいた。由佳さんは、血塗れのナイフを持ったまま、呆然と座り込んでいる。私のお気に入りのラグが、見る見るうちに赤く染まっていく。
 ナナコはどこへ行ったのだろう。首をまわして、部屋の中を見たが、彼女の姿はどこにもない。脇腹の痛みに気が遠くなりそうになり、もう、わけがわからなかった。なぜ、刺されたのが私なのだろう。ナナコはどこに消えてしまったのだろう。
「……ねえ、ナナコはどこ?」
 私の名を呼び続けていた貴史が、一瞬絶句した。その目に、恐怖の色が浮かんでいた。由佳さんに対する恐怖ではなく、ここにはいない、誰かに対しての。
 私はデジャ・ビュを感じた。前にもこういうことがあった。流れている私の血、恐怖を感じているらしい貴史、ここにはいない、懐かしい温かい人……。
 傷が痛み、私は思わずうめき声をあげてしまった。
「今すぐ救急車を呼ぶから」
 貴史が、携帯を取り出した。
 由佳さんは両手で顔を覆い、泣いているような、笑っているようなひきつった声を出していた。ナイフはいつの間にか床の上に落ちている。私の血に怖気づいたのか、これ以上貴史を襲う気力はなさそうだ。ホッとすると、だんだん目の前が暗くなり、やがて何もわからなくなった。



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